蠢く刃
「近くで人が死んでいるらしいぞ」
春の暖かな陽光の中、そんな声が聞こえてくる。自宅アパートの窓から道路を見下ろすと、向こうの公園に人が流れて、その入り口に吹きだまりのように野次馬が集まってまっていた。
この都会では、殺人事件など珍しいことでもない。
春は虫が生命活動を再開し、新芽が芽吹く季節とは言うが、それと同時に別れの季節でもあるじゃないか。どうして野次馬というものは、ああいったものを見たがるのか。
俺は血の付いたナイフをタオルで拭き、ため息をついた。
会社の上司を勢い余って殺したが、どうしたわけか後悔などしていない。むしろ清々しい気分に満ちていた。
上司からこの春に左遷を言い渡されたときは、失望の方が上回っていて殺意などは芽生えなかった。それからは、まるで重石の下にいるような圧迫感を抱えながら過ごしていた。自分の将来のことで思考回路が止まっていた。
しかし、いよいよ左遷される日が近づいてきた今日、なぜか近くの公園に上司に呼び出された。なんでも彼の散歩コースなのだと言う。そこで急に、こんなことを言われた。
「今回の左遷はすまなかった。しかし、これはお前の成長のためなのだ」
文面だけを見れば、有能な上司に見えるだろう。しかし、あいつと長年付き合い、そして左遷先の評判を知っている俺にはすぐにわかった。
こいつは、今更罪悪感を持っているのだ。そして自分を正当化するよう、こんな一見温かなきれい事を言ったのだ。
気づいたら、俺は持っていた護身用のナイフであいつを刺していた。俺は急いで現場を離れ、家に帰った。
俺はそういった激情などとは無縁な人生だった。暴漢に襲われたときのトラウマで護身用に持っていたナイフも、今日まで抜くことはなかった。仕事で成功し、あの上司に冷たくあしらわれているときだって萎縮するような人間だ。
そんな人間が、罵詈雑言ではなく、中途半端な優しさの言葉が動機で殺すとはどういうことなのだろう。自分でもわからない。
ただ、何かが蠢いたのだ。あいつから建前の、温かな言葉を聞いたときに何かが。